田中好子さんのこと [Tristeza não tem fim]
映画、ドラマ、CM等でその笑顔が見られることを当たり前のように感じておりましたが、19年に及ぶ闘病生活を微塵も見せなかった気丈さには、言葉が出ません。
3月に録音したという最後の肉声がニュースで流れたとき、私は朝から涙を堪えることが出来ませんでした。話すことすら辛い状態でありながら、東日本大震災の被災者の方々を思い遣ったり、振り絞るように発せられるその言葉のひとつひとつが痛いほど伝わってくるのです。
俯いて目を閉じるご主人(亡き夏目雅子さんの実兄)の姿に、自分もまた止まった時間の中で生きているということを痛感します。
いろんなことが蘇るので、もうこれ以上は書けません。
子宮頸がん予防ワクチン承認へ 厚労省 [Tristeza não tem fim]
http://www.asahi.com/national/update/0831/TKY200908310209.html
やっとです。
毎年約7千人の方が子宮頸がんと診断され、うち毎年約2500人の方が亡くなられていますが、
このワクチンがそういった状況を救う筈です。
承認されたら、女性の皆様は必ずワクチンを接種して下さい。
もう20年早ければ...
嘗て昔話等で、「悲しみのあまり狂い死ぬ」という言い方を見たことがある。
12年前、私は悲しみのあまり気が狂ってしまった。
今も一秒一秒が苦しくてしかたがない。
これは生きている限り終わりがない。
ただ願うのは、もうどなたも同じような思いをしなくて済むようになること。
もうどなたもこの病気で死なずに済むようになること。
休日の公園を3人で手をつないで歩く親子連れ。
その後ろ姿を、ぼんやり見ていた。
川村カオリさんのこと [Tristeza não tem fim]
ご冥福をお祈り申し上げます。
5年前に乳がんのため左乳房を切除、その後もリンパ節等への転移があり、
抗がん剤の副作用に苦しみながらも、つい先日にもライブステージに立たれました。
38歳という若さで、幼い娘さんを残して... 言葉になりません。
嘗てオールナイトニッポンのパーソナリティーとして活躍されていたときの元気な声が、耳に残っています。
今年になって忌野清志郎さん、山田辰夫さん、そして川村カオリさん...
闘病生活をされていた方々が立て続けに亡くなられました。
個人的にも体調がすぐれず気持ちが沈んでおりますが、
やるべきことをやらなくてはと、なんとか持ち直そうと努力しております。
今まで何度か書いていますが、今一度記します。
退屈な日常を嘆く人が居る。
でも本当に辛いこととは、そういった日常を失うことなのだ。
残された者は旅立った人たちの何が判ればよい?
一生かかっても判らないかも知れないが、ただ、これは確かなこと。
自分を燃やし尽くさなくてはならない。
病棟の記憶やいろんなことが蘇るので、この辺にさせて頂きます。
パパママバイバイ [Tristeza não tem fim]
練習等で横浜へ向かうとき、ときどき節約して高速バスを使います。東名江田で降りて地下鉄・東急あざみ野駅まで住宅街を歩きますが、約31年前の米軍機墜落事故は、まさにそのすぐ近くで起こったということを改めて知りました。
1977年9月27日の午後一時過ぎ、厚木基地から飛び立ったF-4ファントム戦術偵察機が横浜市緑区荏田町(現在の青葉区荏田北)に墜落し、五棟の家屋が全半焼するなど、九人の死傷者が出ました。当時小学4年生だった私は新聞で事件を知り、愕然としたのを覚えています。
その数年後、重傷を負って治療を続けていらした女性が亡くなられたことを知りました。この事故で幼いお子さん2人を亡くされ、ご自身も火傷の治療に長期間苦しまれたそうです。
本件についていろんな見解があるようですが、この墜落事故は戦後と呼ばれている時代に民間人を巻き込んで起こってしまった「現実」です。どういう考え方であれ、まずは「自分の家族にこのようなことが起こったとしたら」と考えてみて下さい。
先日も浜松基地の航空ショーが開催され、米軍機等も訪れて爆音が響いていましたが、私の心に浮かぶのは、30年以上前のこの事故です。私達は「偽りの平和」の中に浸っていろんな出来事を忘れていますが、風化させてはならないことがあります。
日本人に合った抗がん剤の開発を [Tristeza não tem fim]
抗がん剤は、効き方や副作用の出方に「人種差」があることが次第にわかってきている。しかし、これまでの研究開発は欧米が主体となって行われてきたため、日本人などには必ずしも合っていない部分があり、人種に合った薬の開発が求められていた。
また、これまでは製薬会社が抗がん剤の候補薬剤を選び、臨床試験を行っていた。このため、医療現場の情報やニーズが十分に生かされていない欠点もあった。
(asahi.comより )
http://mytown.asahi.com/shizuoka/news.php?k_id=23000000810030004
今日は有休を取っています。
抗癌剤の副作用が少しでも軽減し、患者さんが苦しまずに済むことを願うばかりです。
止まった時間の中で蘇る、病室の記憶。
ほんとうに、ほんとうに何とかしてあげたかった。
自分の命と引き換えにしてでも、救いたかった。
そうたろう君、ありがとう [Tristeza não tem fim]
宗太郎君を支援してきた「そうたろうを救う会」(梶浦祐樹代表)に入った連絡によると、死因は呼吸不全という。
宗太郎君は今年3月、フロリダ州のマイアミ大ジャクソン記念病院で胃、小腸、大腸、肝臓、膵臓(すいぞう)の移植手術を受けた。一時は退院するなど順調な回復を見せ、8月にはニューヨークの同センターに転院した。
しかし、同会によると、9歳の誕生日を迎えた9月26日ごろから容体が悪化したという。
同会の梶浦代表は「支援してくださったみなさんにお礼を言いたい」と涙をこらえながら話した。同会には全国から約1億9000万円の募金が寄せられていた。
(以上 YOMIURI ONLINE より)
時々この病気と患者さんについてニュースで報じられていたので、ご存知の方も多いと思います。
「そうたろうを救う会」ホームページ http://ameblo.jp/saving-sotaro/ によりますと、
8月23日に呼吸状態が悪くなり、挿管(人工呼吸器)するその直前に
「ママ、ありがとう。ありがとう」と言っていたそうで、それが最後の言葉だったそうです。
生まれて以来、ずっとご両親と一緒に難病と闘ってきた9年間。
そして最後にお母さんに伝えたかった感謝の言葉。
君の「ありがとう」という言葉、私は一生忘れません。
ごめんなさい、涙が止まらず、もうこれ以上書けません...
元バレー女子全日本代表候補、癌のため21歳で早世 [Tristeza não tem fim]
17歳で全日本代表候補入りし、生まれ故郷・北京での五輪出場を夢見たバレーボール少女が、18歳でがんを宣告された。「もう一度コートに立ちたい」とつらい治療に耐えたが、病床でつづった自伝の出版を待たず、先月、21歳でこの世を去った。
《周りは当たり前のように元気で生きている。あふれんばかりの“生”に嫉妬(しっと)した。こんなの公平だと思うか?》
しかし、入院して初めてわかった。同じ病棟にいる子どもたちの強さ。医師や看護師、家族や友人の支え。
《応援してくれているすべての人から注がれていた見返りのない親切と愛情を感じられるようになった》
http://www.asahi.com/sports/update/0517/TKY200805170072.html
今、自分は生きている。
それはけっして当たり前のことではない。
どれだれ生きたかではなく、その瞬間をどう生きようとしたか。
そのことを改めて思い起こさせてくれました。
ジャズシンガー石野見幸さんのこと [Tristeza não tem fim]
11/19(月)TBS系 News23 でジャズシンガーの石野見幸さんのことを知りました。
http://www.mico3.com/
末期癌と闘いながら、歌手としての活動を続けられていらしたそうです。
10年前、私は手記にこう書きました。
「退屈な日常を嘆く人達が居る。でも
本当に辛いことというのは、そういった日常を失うことなのだ」と。
石野さんが生前のインタビューで同じ事を仰ったとき、いろんなことが思い出され、涙が出て来ました。
いったい、どれだけ見送り続ければいいのか。
走らなくては。
立ち止まってばかりいては、先に逝った方々に申し訳が立たない。
阪神・淡路大震災から12年 [Tristeza não tem fim]
'94年1月17日。震災当日の朝、ニュースの画面を見てただ愕然とするばかりでした。
芦屋の友人に連絡がついたのは2日後でした。家族も家も無事で心配しなくてよい、とのことでしたが、ライフラインの寸断等で困っているのは報道でも明らかでしたし、何よりも遠方でじっとしているのが辛くてなりませんでした。
震災の翌週の日曜日、実家の奈良に戻り、水・食料等の支援物資をザックに積めて、そこから近鉄、JR、阪急を乗り継いで行きました。
環状線から見える大阪の街並みも乗客も、全く何事も無いような顔をしていて、被災地の近くに居るという感覚が無い様子に戸惑いました。
皆、何故そんな普通にして居られるんだ?
叫びそうになる自分を抑え、何とか西宮北口駅に着きました。ここから先は不通となっていて、線路沿いの道を歩くしかありませんでした。改札を出ると、ひび割れたり倒壊している建物が見え始めました。冷たい雨の中を 30kg のザックを背負い、ただただ西へ向かい歩く。
まるで戦場だ...
惨状を目の当たりにして、それ以上言葉が見つかりませんでした。
倒壊した家の前で、ここでどなたかが亡くなったのかも知れない、と落ち込んだり、また別の家の前では避難先の住所が書かれたメモが貼られていたりすると少し安心したりと、一喜一憂を繰り返しながら歩き続けました。
夙川の手前で捩じれて寸断された神戸線の脇を通り、何とか友人宅へ辿り着きました。友人とその家族の無事が確かめられた上、水道以外は復旧しているようで、少し安心しました。ただ、会社の人が亡くなられたことを聞いたり、辛い話もありました。
再び西宮北口駅へ向かって歩く中、生温い日常へと帰還しようとする自分に途方も無い罪悪感がこみ上げて来ました。今日は少しは何かが出来たかも知れない。でも明日は ? 明後日は ? 自分に何が出来る ?
あれから12年。無念の中で亡くなられた人、そして日常を失ったまま、止まった時間の中で生きている残された人。
私に何が出来る ? 何も出来ない。また、判ったふりもしたくない。
人間は経験したことしか判りません。しかし、被災された方々のあの日、今まで、そしてこれから、どんな思いで生きているのか、そのことを時々思い出したり、考えたりします。
答えは見つかりません。ただ、当たり前のことなんて無いということ、一瞬一瞬を大事にしなくてはならないということ、先に逝った方々はそのことを私達に考えさせてくれます。
8/15 [Tristeza não tem fim]
終戦記念日から2日過ぎてしまいましたが、
戦禍に苦しんだ方々、亡くなられた方々のことを思うと、
あの出来事は決して過去ではなく現在なのだと感じます。
もう2度とあのようなことが繰り返されないよう、願うばかりです。
やすらぎよ ひかりよ
とくかえれかし
いのちこめて
いのるわれらの
このひとふしの
あわれにめでて
作詞:香山滋
作曲:伊福部昭
映画 「ゴジラ」 ('54)より